変わりゆく遺影―絵から写真に、そしてまた「絵」に

by Daisuke Uriu on

まだ色々と調べている途中なのだが、どうやら葬儀や法事の際にかならず用いられる遺影(故人の面影を)は日本独自のもののようだ。2008年に行われた表象文化論学会の研究報告Wikipediaによれば、西洋においては葬儀の中心に遺影を据える行為は一般的ではなく、主に米国などでは葬儀の際、エンバーミングを施した遺体が主役となるため遺影写真を飾ることは稀である。

写真技術そのものが普及したのが19世紀であり、日本においても葬儀の際に遺影を用いることは、古来からある慣習であるとは考えにくい。明治以降の火葬の普及、葬列の廃止にともなう祭壇と出棺の重要性の増大といった変化がその発端であると考えられる[ref]表象文化論学会 第3回研究発表集会報告 研究発表5:写真と弔いの形式——近代日本における遺影と国葬写真 http://repre.org/repre/vol8/meeting03/panel05.htmlより [/ref]。また、美術史家の木下直之氏は、遺影の普及の時期は日清・日露戦争と重なり、戦死した息子の肖像写真あるいは写真画を座敷に飾ることに由来するとした[ref]矢野 敬一 『慰霊・追悼・顕彰の近代』吉川弘文館(2006年3月) [/ref]。

研究報告において、浜野志保氏は、江戸時代の役者絵の一種である死絵(しにえ)を遺影の原型であるとする説を発表した。歴史系総合誌「歴博」第151号によれば、死絵とは歌舞伎役者などが亡くなったときに訃報と追善を兼ねて作られた錦絵であり、江戸中期から明治後期にわたり盛んに出版されたものである。亡くなった役者が白装束を身につけていたり、三途の川の河原や蓮華、極楽の建物など死や他界を象徴するものが描かれていた。また、命日と戒名、埋葬された寺院や辞世や追悼の句なども添えられていた。[ref]歴史系総合誌「歴博」第151号 連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」描かれた死後の姿 <死絵> http://repre.org/repre/vol8/meeting03/panel05.htmlより [/ref]

また岩手県遠野市の寺院では追善供養のために、故人の遺影(古くは肖像画、のちに写真)が奉納される習慣があったとされる[ref]珍寺大道場「供養絵額/岩手県遠野市」 http://www41.tok2.com/home/kanihei5/tonoegaku.html[/ref]。元々は公家、武家のものが、江戸末期、庶民の間でも似絵を寺に奉納する習慣が広まったと言われている[ref]人力検索はてな「遺影の発祥について」2010年2月9日 http://q.hatena.ne.jp/1265273322[/ref]。

このように、遺影とはもともとは絵師が描く肖像画であったものが、写真技術の登場により写真に置き換わり、そして誰でも安価に写真を用いることが可能になった現代社会において、あらゆる葬儀の場面で故人のアイコンとして重用されるようになったと考えるのが妥当そうだ。

そしてデジタル写真技術全盛の今日、遺影写真はいわばデジタルの「絵」になりつつある。遺影写真の加工・作成の全国シェア28%を担う株式会社アスカネット[ref]アスカネット社員への聞き取りによる[/ref] では、全国3箇所の営業所を拠点に「遺影写真通信出力システム」を配備する。葬儀社経由で遺族から故人の写真を手配し、営業所で働く画像処理オペレーターに即時送信、加工を施しプリント、納品する。写真の背景はもちろん、故人が身にまとう衣服、歪んだ写真の補正など、あらゆる画像処理技術を駆使して美しく仕上げる。[ref]株式会社アスカネット 遺影写真製作・加工 http://www.mds.ne.jp/product/product.html[/ref]

アスカネット社員によると、このようなデジタル化・ハイテク化が進んだ今日も、未だに紙に焼き付けた写真が主流だという。私の博士研究であるFenestraはいわば、デジタル遺影にインタラクションを加え、新しい供養の様式を提案する試みだ。もともとは、絵師・職人が描いていた死絵、肖像画であった遺影が、写真に置き換わり、そしてデジタル写真へと変化した。デジタル写真の画像処理職人=デジタル絵師がその制作を担っている。もう少し調査を進め、遺影という存在の歴史・文化的意味と技術の受容、そして未来への展望について追究していきたい。

Written by: Daisuke Uriu

瓜生 大輔(うりう だいすけ):慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科博士課程修了(博士<メディアデザイン学>)。おそらくHCI(ヒューマンコンピューターインタラクション)デザイン研究者。インタラク...